昭和41年06月24日 朝の御理解
昨夜お祭りの済んだ後に、皆さん帰られました後に必ず、あの私お初穂の整理をさして頂いておりますけど。二番目の娘がここで手伝わせて頂きながら、今朝方お夢を頂いたと言うんですね。どういうお夢かと言うと、あずきを、甘酒を作ります麹ですね。麹をたくさん丸めたりしよる、御飯がたくさん炊いてある。その全部ですね、誰かがそれで人形をつくりござると言うて、そのお夢頂いとるんです。あずきとか麹とかお米とかそう言う様なものをですね、みんな人形を作りござると。と言う様な。
娘はむつやの下の娘さん、さえこと学校が一緒でございます。あの子が非常にこう気持が合う様です。2人で話し合ってから、今日は秋永先生の所にお見舞いに行く約束をしておると言う訳です。お見舞いに行くのは嬉しいけれど、あちらに行って先生にどう言う事を話しようかと。何をお話ししようかと思いよった。そのお夢の今のあんたが頂いたっていう、その事をお話しせんねと私が。秋永先生どう言う事でしょうか。とお伺いしながらお話ししたらいいんじゃないか、と言ってから行った事でございますけどね。
皆さんどういうことだと思われます。私思いますのにですね、信心さして頂いておって、一切がおかげだということですね。自分の思うようになることもおかげなら、思うようにならない事もおかげだと。いやむしろ思うどころか右と願えば左、左と願えば右というように、反対反対にいわばなっていく場合もある。ご飯を炊いておるからままになったというて、ままにならない。私以前にままになるお米を潰して、神酒にするという意味のことを頂いた事があった。
皆んなが自分のままになる事が、おかげと思うんだけれどもそのままになるそのそれを、潰してしもうてそれでお酒を作るという場合もあると言う事です神様は。あずきとかオヨネとか、麹とかこれでみんな人形を作るんだと、誰か言っておるとこであった。甘木の初代が仰っておられたと言う事です。神様が人形使いなら、私は人形じゃと仰った。操り人形じゃと仰った。いわゆる神様任せと言う事の。神様が人形使いで私共が人形。所が私共が欲のごうだもんですから、中々同じ人形でも神様まかせにならない。
そこで神様がまぁ強制的に、ほんとうにおかげを受けたいと願っているもの、強制的にもう神様にお任せする以外に、他はなしと、言った様な事柄からです。任せる事が、こんなにも有り難いものだ、こんなにも楽なものだ、任せる事によって、お徳を受けるんだと言った様な事を体験さして下さると言う事です。私共神様を、自分のままにしようとする、それを信心と思うたり、おかげだと思うておるけれども、だからやはり、ままになるおかげも頂く。
けれどもまた反面にはいくら願うても願うても、反対の方に成って行くと言った様な時はいよいよ、私共は神様任せに、の氏子にして下さろうとする、神様の働きがありよるということを感じなければいけん、思わなければいけんとこう思います。そこで私共が本気で素直にならせて頂いて、本気でもうどのような場合でも、神様任せにならせて頂くと。氏子が神様任せなら神様も氏子任せになる、仰せられますから、神様は氏子任せになりたいという、一命願いを持ってござる。
そこにいわば、幸せの氏子としての生き方というのがあるんです。ですからまず、神様が私共任せになって下さる事のために、氏子が神様まかせならと仰る。神様任せにならして頂けれる。そこには様々な問題がございますよね。神様任せになる。神様任せとはどういうことかと。親先生任せだと。親先生任せになってさえおればええと、親先生任せになって怪我する場合もありゃ、親先生任せになって損する場合もある、親先生任せになって恥ずかしい思いをせなければならんこともある。
難しいというのはそこが難しい。そこんところを私頂きぬかせて頂くところにです、神様が、いわば神様任せになって下さると言う様なおかげ。先日から頂いております、山一と山いわゆるマイナス、それに辛抱の棒をさして、あの傘になるように安心のおかげを頂けるようになるように、成程神様任せになっておけば、安心だというその思い込みがすっきりできてしまう、おかげを頂かして下さる為に、わざわざままになるものまで、わざわざ痛い思いさせてまでも。
神様が私ども、いわば操り人形にして下さろうとする働きがあると言う事を、感じますですね。ですからお互いが本当に本気にならせて頂くという事が、私はお徳を受ける事だと思います。今日、秋永先生のところに娘達が、あのお見舞いに行くとこういう、話す材料がない。この事を秋永先生に私が話して、伝えてどう言う事でしようかとお伺いしてみれ。と言いながら秋永先生がその事をどう頂くだろうか。
きっとそう言う様な答えを出すに違いないと、私は期待しておりますけれども。皆さんの場合はどうでろうか。その辺がなんとも言えん一つの調和を持ってです、本当に心の上には神様のおかげを実感させながら、形の上には叩かれ通し、それでもなんともなしに、本当におかげを受けておるんだなぁと、そういう働きもいつもあっておる。ですから、その辛抱もしようとですけれども。
始めから神様任せにならして頂くと言う事がです、信心だと言う様に。ただ神様を自分達まかせにする事が、信心だと言った様なような考え方の中には。そういう神様の働きをいかに繰り返し繰り返し頂いても。それをいつまでたっても、神様まかせにならして頂けれる素直な、いわば人形にはなれないと思う。このことだけはまかせられるけれども、このことはまかせられない。
徹底した任せの、信心生活を願っておかなければなりませんね。皆さんの場合でも、お米やら麹やらアズキやらといったものが、人形にしてくださろうとしておろうけれども。出来の悪い人形で動きのない人形であってはならない。やはり安武先生が仰っておられるように、同じ人形になるなら操り人形にならなきゃいけん。そこで神様がいよいよ人形使いの行を承って下さる。そこに私は神様はまた、氏子任せに成って下さる、おかげが頂かれると思うですね。
どうぞ。